まごつき期としてのD – 長谷川祐子
日々いろんな不都合や不具合が起こっています。
制度や政策に対する批判的検証と、それに対して声をあげることは大切です。特効薬的な代案がだせなくても、試行錯誤しつついろいろ提案しつづけることは大事です。
キュレーターという人間は、アートという「責任のある」自由の領域をさまざまな場所で風呂敷のように広げ、そこでいろんな人たちが感じたりそれを言葉にして議論したりしているさまを眺めては、そのオーラとエネルギーを糧につぎの展覧会を考えていく旅人のようなものです。
私はキュレーターとして仕事をしてきて、一番大切なのは、どのような属性にもとらわれない素の人間としての「人」(相手)と対峙することだとおもっています。私たちは「被災者」ではない、その前に「一人の人間」です、という福島在住の一人の方の声に対して、私がその方にかえせるとすれば次のような言葉になるでしょう。
「アートは、現状に対して問題解決は提案できないが、今の問題に気づきをあたえ、ともに考える契機として各々のアクションにつなげていくこと、そのアクションに意味があることを信じさせることができるものなのです」と。
それはすべての人々に同等になげかけられる言葉です。私たちは皆多かれ少なかれ問題の、トラブルの渦中にあり、当事者としての責任をおっているのです。
大切なのは大きな手に余るサイズの物語について声高に議論するのではなく、自分で介入したり、手を加えたり、もちはこんで誰かと分け合ったり、場合によっては部分をちぎってくっつけたり、コラージュしたりして少しずつ変えることのできるサイズの物語を部分的に共有し、そこから縁あって生じてくる予測できない連結や複合を拒まないことではないかと思っています。自分がしっかりとかかわったり深く感じたりすることで、環境を共有するまわりの人たちと共感したり、「信じさせる」ことができる。アートはそのような物語やそれに導く想像力を作る媒介だとおもっています。
アートは五感で感じ取ることのできるモノ、媒質であって、それはsensory learningでもあります。この10年、アーテイストの多様な試みをみてきました。日々つかっている電気機器がどこからどうやってきたのかわからない、それを探求するために一から(素材から)トースターを手作りでつくろうとした作家、津波対策として巨大な堤防をつくるかわりに、大波がきたとき、ふわりと波にのり、地上から分離して海上仕様になる住宅を提案した建築家、極圏で崩落した流氷を運んできて、巨大な氷塊がとけていく音を都市の広場で皆に一緒に聴くようにした作家、国境を超える難民のための地図とコンパスつきのスニーカーを無料配布した作家(国境のこちら側では高級ショップで販売する戦略とひきかえに)、ロックダウンでどこへも取材にいけなくなり、stay homeを余儀なくされた写真家がとらえた、自宅の庭でいつものように遊ぶ子供達に降り注ぐ奇跡のような光。80年代の欲望を体現したキーワードにかかわる(意味が変容してしまった)「現代の言葉」をネット上からひろいあつめ、銀河の美しさをもったクリテイカルな光景として現前させたcollective D.
[1] Olafur Eliasson and Minik Rosing
Ice Watch, 2014
Supported by Bloomberg
Installation view: Bankside, outside Tate Modern, 2018 Photo: Justin Sutcliffe
Courtesy of the artist; neugerriemschneider, Berlin; Tanya Bonakdar Gallery, New York / Los Angeles
© 2014 Olafur Eliasson
[2] Rinko Kawauchi, Untitled, 2020
[3] Dumb Type《TRACE/REACT Ⅱ》2020
exhibition “DUMB TYPE | ACTIONS + REFRECTIONS”
Museum of Contemporary Art Tokyo
Photo: Kazuo Fukunaga
そこにあるのは、正しいコンセプトや美学の開示(プレゼンテーション)ではなく、むしろどうしたらいいのかわからず、試行錯誤しつつ、今自分のリアリテイと感性でつかんだ物語を共有しようとするアーテイストたちのまごつきの姿です。今、Dithering (まごつき)のDを私は美しく愛おしいと思います。(Ditheringはダナ・ハラウエイが現在を表した言葉で、KSロビンソンのSF『2312―太陽系動乱』から引用しています。)
いろいろ書いてきましたが、この7月から11月までタイのコラット県(東北地区)でビエンナーレをキュレーションします。政権と体制をめぐる若者と年長者の世代間の分断、観光業停止による経済困難、周辺国家との複雑な調整に直面しているタイ・・。泥の上でパドリングをしている蝶がタイトルとメインイメージとなっています。副題は“Engendering sensible capital ”今私にとってsensible であることとはどのような実践なのかが課題です。私も泥の上でdithering することで、泥まみれになりながら、いつのまにかデトックスされたらいいなあと思ったりして準備をしています。次に広げる風呂敷の上に遊びにいらしてください。
長谷川祐子 キュレーター、クリテイック、美術史家
Yuko Hasegawa Curator, Critic, Art Historian
東京都現代美術館 参事 / 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科 教授
キュレーター/美術批評。京都大学法学部卒業。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。水戸芸術館学芸員、ホイットニー美術館客員キュレーター、世田谷美術館学芸員、金沢21世紀美術館学芸課長及び芸術監督、東京都現代美術館チーフキュレーターを経て、現在、同館参事。4月から金沢21世紀美術館館長就任予定。文化庁長官表彰(2020)。主な企画展・国際展に、第7回イスタンブール・ビエンナーレ「エゴフーガル」(2001年)、第 4 回上海ビエンナーレ (2002 年)、第 29 回サン・パウロ・ビエンナーレ (2010 年)、第11回シャルジャ・ビエンナーレ「re-emerge, toward a new cultural cartography(リ・イマージ: 新たな文化地図をもとめて)」(2013年)、第7回モスクワ・ビエンナーレ「Clouds⇆Forest」(2017年)、第2回タイランド・ビエンナーレ「Butterflies Frolicking on the Mud – Engendering Sensible Capital」(2021年)など。主な著書に、『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』、『「なぜ?」から始める現代アート』、『破壊しに、と彼女たちは言う:柔らかに境界を横断する女性アーティストたち 』など。