Vol.2 – ごみと資本主義 / 後編
ー資本主義の中でどうゴミと付き合っていく?生産性を強いられる私たちの生活
永井:こうした議論と繋がってきますが、次のテーマに移ります。では、こうして欲望を作り出されて不必要に消費のサイクルを早めていると理解した上で、この資本主義社会の中で私たちはゴミとどう付き合っていけばいいのでしょうか?
藤原:僕は「修理」というのがキーワードになるんじゃないかと思っています。以前掃除機が壊れてしまった時いろいろ試していたら、実はすごく単純なところが壊れていたことがわかったんです。ハンダゴテで修理しただけで現時点で寿命が3年も延びている。説明書にはそういう風に機械を触らないでくださいという但書があったんですが、でもメーカーもこういう風に修理しやすい作りの商品を販売してくれたらいいなと思うんです。長く使ったものにはより愛着が湧くので、今でも「よしよし頑張れ」と思いながら使っています。「修理」というのはひとつのキーワードかなと思っています。
永井:修理をすることでどういう仕組みのものなのかを意識したり、ものと深く関われるようになりますよね。斎藤さんいかがですか?
斎藤:これまで話してきた広告と並んで、資本主義の中で問題視すべきなのが『計画的陳腐化』です。計画的陳腐化とは数年で商品をモデルチェンジすることで、人々が定期的に新商品を購入するよう促すことです。モデルチェンジが行われることで古い商品に合う部品などが手に入りづらくなり、新品を買わざるを得なくなる。こういう状況を企業が意図的に作り出していることがあるんです。
僕は広告を抑制すると同時に、この計画的陳腐化を禁止するべきだと思っています。同じものを長く使うのがもっとも「エコ」。さらに、計画的陳腐化を禁止すれば働く時間も減らすことができる。人間が過度に労働することで地球の環境は壊れているのなら、「働けば働くほど良い」という価値観から脱却することで我々にも地球にも優しい社会・経済に移行できるのではないか。
篠田:斎藤さんがおっしゃっていたように、私たちは働く・成長する・生産するいう風にとにかく前へ前へ進むことが善であるように刷り込まれていますよね。
それが行き過ぎた結果、今や余暇の時間も資本に搾取されるようになってしまった。youtubeを見ているときも、我々がクリックしたデータはグーグルのデータとして収集されてそれに合わせて広告が出てきます。こうした個人の行動も全て巨大な資本の手中にあって搾取され続けている。結果として僕が一番自由を感じるのはデジタルデトックスをしている時間だけになってしまっているような気がします。
藤原:今の一連の流れから、ナチスの強制収容所に掲げられた「Arbeit macht frei.──労働は人を自由にする」という言葉を思い浮かべました。世界からの視察団に対して、ナチスの強制収容所の素晴らしさをアピールするために使われた言葉です。
労働し、資本主義に貢献することこそがあなたにとっての自由なのであるという意味を持っています。
この言葉は、「Stadtluft macht frei.──都市の空気は人を自由にする」からきています。中世、農奴制という奴隷状態から逃れてきた人々を都市が労働力として利用するために用いられたロジックです。都市に入って、366日間都市に隠れたらはじめて市民として自由になれるぞと。これらは今の社会に繋がっています。
ですが、本来の自由とは「自分は労働力として不完全でいい」「ありのままでいい」と思える瞬間に宿るのではないかと私は感じます。これは、後藤さんがおっしゃったような数字に囚われることなく、たった数人に音楽が届いて通じ合えたらいいんだという感覚とも近しいかもしれません。
田代:機能しなくなったものがゴミなのだとしたら、人間も同じように労働力として貢献できないとみなされると、社会の中ではゴミのように扱われているなと思いました。
歴史を見ても明らかですが、重度の障害者や老人のような”生産性”の低い人はずっと社会に切り捨てられてきました。私自身もまさに今日本という国のなかで、この社会の役に立たないと切り捨てられてしまうのではないかという恐怖心をどこかでうっすら感じながら生きている気がします。こういう考え方も資本主義の中で加速したのかなと思いました。”生産性”の有無で人の価値が測られてしまうと、それは優生思想や自己責任論を正当化することにも繋がってしまう恐れもはらんでいますよね。
藤原:ナチスは”生きるに値しない生”という概念を作って人々を分断していきましたが、その中心にも労働がありました。労働よりもっと抽象度を上げた”働き”という言葉で考えると、これは人間以外の生物にも当てはまってしまいます。
永井:この排除の力というのは非常に強いなと感じています。私は哲学者のヌスバウムが好きなんですが、彼女が『感情と法』という本の中で嫌悪感について議論しているんです。
人間の生活の中で強く作用している感情として嫌悪感というものがあり、それは汚濁への忌避だと彼女は述べています。嫌悪を催させる対象──排泄物、死体、腐った肉、ゴミ──への感情を嫌悪感と名付けて、それを外部に投影することで差別は創出される。
これまでの歴史を見ていくと、ユダヤ人は不潔でいやな匂いがするという風に、ゴミのイメージと強く結び付けられ嫌悪感を抱かせる存在というイメージを付与されてきました。女性差別もそうですが、根っこは単純な排除したいという欲望でしかないにもかかわらず、嫌悪感という共有可能な感情で説明をつけることで、ある人々にネガティブなイメージを植えつけることに成功してしまったんですね。
藤原:まさに嫌悪感によって経済的な階級社会が作りあげられ、感染症のリスクが高い分解の仕事を下層の人々に押し付けてきたというのは、歴史を振り返れば明らかです。
ですが実際には、世界がサステナブルであるよう下支えしてくれているのはそういった人々なんですね。彼らは、腐敗したものやボロやクズをゴミではなくもう一度使えるものとして集めている。それが本当はどれだけわくわくすることか。それこそが、僕が『分解の哲学』を通じて伝えたかったことなんです。
斎藤:だから『分解の哲学』の中ではマルクスが批判されているんですよね。マルクスは、資本家の元で規律訓練されることなく気ままに働いている人たちを「ルンペン・プロレタリアート」と呼んで、評価しなかった。だからこそこの本を読むとはっとするんです。
今限界が来ている資本主義に代わる未来社会について考えるには、想像力が肝要になってきます。ディストピアやAIに取って代わられる未来、あるいはドラえもんのような新技術が全て解決してくれるという安直なものはすぐに思いつきますが、そうではなくて、自分たちで運動を起こすことで社会や政治を変えられるんだという想像力こそが必要なんです。思想や歴史を振り返ること、また、芸術や音楽はインスピレーションに満ちていると思います。
後藤:何かについて想像する時、今の自分の思考方法は奴隷化が済んでいる状態であることに注意を払わなければならないと思っていて、もう少し深い意味で壊していかなければならないものがあると思っています。
また音楽に喩えてしまいますが、新しい音楽を作るために平均律使うんですよ。でも平均律は音楽理論によって打ち立てられたルールであって、世界には平均律という枠組みに治らない音であふれているんです。だからそうしたルールに準じることのないアイヌのウポポに参加すると、ギターのような平均律によって統制された楽器は役に立たないんです。最初に歌い出した人のピッチが平均律の外だったりするので。
藤原:私は、社会を変えようと思った時に大きな部分から着手するのではなく、地べたに近い日常的な部分から考えていくと見えてくるものがあるんじゃないかなと感じました。
つるつるしていてスマートに物事が進んでいくのが良い社会だという価値観がありますが、そうではなく、ひっかかったり転んだりという摩擦があるからこそ楽しみを感じるという側面も絶対にあると思うんです。「他の人が転んだ、じゃあ助けてあげよう」という考えももちろんそのそばにあって、個人の世界で完結せず、周囲を見渡すことによって『分解の哲学』は腑に落ちてくるのではないかと思っています。
「資本主義は打倒すべきものではなく、分解していくもの」──偏在するコミュニズムと未来を志向するヒント
永井:最後に視聴者の皆さんからの問いやコメントをピックアップしながらダイアローグを続けて行きたいと思います。「ものを売らなければ生活していけないという人が多すぎるという事実」「ものを直せる知識・経験を義務教育で学んでほしい」というコメントなどが届いています。ほかに皆さんが気になるコメントなどはありましたか?
藤原:今読み上げていただいたコメントにお答えすると、義務教育で学んでほしいというのは僕も本当にそう思っています。国立修理大学という教育機関を作り、修理をめぐる学問を通じて社会について考えてみることは有用なのではないかと考えています。
また大学の他にも、辞書を作るべきだと考えています。例えば、「作曲」という言葉の代わりに「解曲」という造語を使ってみると、別の概念が生み出されますよね。こういった思考の転換も重要だと思っています。
それから、「修理というものへの関わり方は生産なのではないか」というご批判をいただきました。確かにその通りで、修理には生産を助ける側面もあります。
ただ私が描いた分解の世界では、所属や所有権を失ったものが以前とは全く別の物質の一組成になる過程を捉えていて、この営為を人間とものの関係にも当てはめられないかと考えた時、近しい概念として「修理」というものがあるのではないかと考えたんです。
永井:他にも、「資本主義の社会の中で何しても八方塞がりで、将来の社会の姿を想像できたとしてもそこに向かっていくためにどうしたら良いのかわからない」というコメントも届いています。「放送を見ながらもやもやする」というコメントも。こうした思いに対して、もちろん歯切れ良くお答えすることはできないと思いますが、共感やコメントなどみなさまいかがでしょうか?
後藤:資本主義の中ではあらゆるものの価値をお金に換算してやりとりを行いますが、そうではないやり方に注目してみてもいいのかなと最近考えています。例えば、僕らが企画している『D2021』はイベント開催のために皆さんから支援をしてもらいたくてTシャツを売っています。僕もコロナの影響で苦しんでいるライブハウスを助けたくてドネーションTシャツを何枚か買ったんですが、ただ応援したいだけなのに、どうしてもものが付属してきます。またお礼をする方も、何か形あるものをお返したいと考えていたりすると思います。でも、お布施や贈与という形態のことを考えてみれば、「行動を社会に寄付する」という形でも良いんじゃないかと思うんですよ。
例えば、僕はこの番組に出て話すと自分にとってすごく勉強になるんです。そういう利益があるので今夜はギャラが出なくても、「なんだよチクショウ、ノーギャラか!」とは思わないわけで、そういう発想の転換はひとつの鍵かなと考えています。
永井:「自給自足への生活への回帰はあると思いますか?」というものも来ています。また「資本主義から脱却するのではなく、大量生産・大量消費とどう付き合っていくのかが重要になってくるのではないか」というコメントも。これらの問いに対してはいかがですか?
藤原:ユートピアを論じる中で「何度も自給自足の世界へ戻ろう」という掛け声が上がることは度々あって、その都度失敗してきています。近代社会においては、職業選択の自由や人の移動の自由が認められており、絶対に譲れないものであるという価値観があるからです。そのため、田園回帰は今もブームですが社会を根本に変えるほどにはならないと思います。ただすごく単純にファクトだけを見て考えると、今の日本には耕作放棄地がものすごくあって、それを活用するだけで何百万人の食生活を支えることができるんです。こういう風に土地の活用度などの事実だけに着目してみると、もっとできることはあるのではないかと思います。都市と地方、東京一極集中のような問題もこれに関連してより深く考えるべきだと思います。
資本主義というのは打倒すべきものではなく、分解していくものだと考えているんです。内側から毒を食らわせたり、発酵させたり、腐敗させたりして、美味しい部分を私たちがいただく。少し抽象的な言い方になってしまいますが、資本主義の中にある矛盾を矛盾として際立たせていきながら、私たちの分解力──「食べる」「修理する」──をどんどん高めていくことが重要になってくるのではないかと思います。
永井:コメントでも、「資本主義=悪ではなく、そのルールの中で何を変えていくのかを考えていきたい」というものや「資本主義って本当に終わるんだろうか」といったものが届いています。
斎藤:人類学者のデイヴィット・グレーバーは、コミュニズムというのは資本主義を倒した先にあるものではなく、すでにこの社会に存在していると言っています。どういうことかというと、例えば「そこにあるペンをとって」と、同僚に言われた時、「はい、じゃあ100円ね」と金銭的な対価を求めたりしませんよね。この他人が必要とするものを対価を求めずに提供するというのは、コミュニズムの原理なんです。
だから、資本主義を内破しようとするようなコミュニズムのあり方は、実はもう社会に偏在しているんです。YouTubeで誰でも観れるChoose Life Projectさんやエントランスフリーを目指しているD2021など、お金を介さずに人と人が繋がる領域を増やしていく。そのような試みも、次の社会を思い描くための想像力を開放する一歩になるのかなと思います。
後藤:コミュニズムが今の生活の中にあるということは、資本主義が前時代の名残りとして社会の中に存在している未来も描けるかもしれないということですか?
斎藤:そうです。さらに言うと、これだけ浸透していても資本主義はコミュニズムを完全に消し去ることはできないんです。資本主義の支配もまた不完全。八方塞がりのように見えても、チャンスは常に開かれているんじゃないかな。
永井:一見すごく遠回りに思えるようなことを通じてこそ、斎藤さんがおっしゃたような社会像を思い浮かべる想像力が養われるんですね。まさしく私はこのダイアローグも分解の場だと思っていて、そういう場を多くの人と作っていけたらなと思っています。
時間があっという間に過ぎてしまいましたが、最後にみなさまから一言いただきます。
藤原:たくさんのコメントありがとうございます。斎藤さんの言う労働の問題と、永井さんの感情というところをもう少し突き詰めたいなと思いました。
さっき芸術の話がありましたが、後藤さんのお話を聞いていてそうした表現というのは、決して私たちの暮らしから切り離されていないということを感じて、これはとても希望だと思いました。社会の矛盾を抱えながらの表現というのはそれ自体とても政治的なんです。その格闘の場所でどこまで考え抜けるか、それ自体が一つの私たちの課題であって、そうした先に次の何かを想像する可能性が見えてくるのだとあらためて思いました。ありがとうございました。
斎藤:忘れてしまいがちですが、人間というのは自然の循環の一部として生きています。その過程で出てくるゴミの存在を私たちを忘れている、ということから今日はスタートしました。必ずゴミは、台風や洪水といった災害に形を変えて、私たちの世界に返ってきます。人新世とはまさに自分たちの営為のせいで人間が自然に翻弄されるような時代なんです。
資本主義や左派がゴミの問題を考えてこなかったことがそうした時代を作り出してしまった要因の一つだと思います。そして今はまさに新しい思想が求められている。こういう場を通じてぜひ皆さんと思考していきたいと思っています。これからもよろしくお願いします。
後藤:とてもおもしろかったです。お二人の授業を同時に受けているようで、ものすごく贅沢な時間でした。一市民として自分でできる分解とは何だろうと今日は考えを巡らせました。ありがとうございました。
ミル:藤原さん、斎藤さん、今日はありがとうございました。
僕は今日は生産の話が一番心に残っています。今の社会には「仕事をしよう」「空き時間もきちんと予定を立てて筋トレや読書に励んで有効に時間を使おう」と駆り立てられている状態が推奨されているような空気が確かに存在していますが、一方で、ベーシックインカムの導入や、「何もしないことこそ大切だ」という話も出てきていますよね。
本当は無理をしてまで働く必要はないし、したいように何かを作ったり修理したりして楽しくすごせば良いはずで、そういうテクノロジーもそろそろ手に入れられそうなところまで来ている。それなのになぜみんな素直にそういう方向に進んでいけないのかというのはあらためて感じて、引き続き考えていきたいなと思いました。
田代:私はお話を聴きながら資本主義の中の「搾取」について考えていました。この資本主義の社会の中で一番搾取されているのは社会的な弱者で、この社会のシステムを反省したり、振り返る時間もなく働かされて働いている人たちだなと思うんです。ユートピア論ではない形で、その人たちと一緒に社会を作っていくにはどうしたらいいのかを考えていきたいなとあらためて感じました。「共存」の視点を持てるかどうかが、社会のあり方を想像していく上で重要になってくるのかなと思います。
今日は皆さんと考えることができて、対話の大事さを再認識しました。ありがとうございました。