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Vol.1 – ごみと資本主義 / 前編

「ゴミ」「食」「水」といった身近なことから問いを提起し、社会の仕組みや課題について考えていくChoose Life Projectさんとのコラボレーション配信シリーズ『Dialogue』。

第一回のテーマは「ゴミと資本主義」。私たちは日々多くのものを購入しては捨てていますが、それらは捨てられた後どうなるのでしょうか?そもそも私たちは本当に自分が欲しいものを購入している?そんな問いから始まり、資本主義社会の大量生産・大量消費モデルの限界や未来の社会のあり方、私たちの働き方についてなど、想像をめぐらせながら対話します。今回のキーワードは「分解」です。

 

永井:みなさんこんばんは。D2021の新しいプログラム『Dialogue』が本日からスタートします。
初回となる本日は今後レギュラー出演してくださる経済思想家の斎藤幸平さん、そして歴史研究者の藤原辰史さんをゲストに迎えてお送りします。斎藤さん、藤原さんよろしくお願いいたします。

 

斎藤・藤原:よろしくお願いします。

 

 

永井:藤原さんを今回お招きするきっかけとなったのは、去年6月に藤原さんが出版された『分解の哲学』という本を、後藤正文をはじめとしたD2021運営が手に取ったことでした。藤原さん、『分解の哲学』とは簡単にどのような本なのでしょうか?

 

藤原:はい。今のいわゆる資本主義社会は「たくさんの商品や作品をどんどん作って、それをどんどん消費しよう」というプレッシャーに覆われています。そうした中において、もう一度壊れたものを直したり、解体していくことに注目してみたら、資本主義社会の弱点――ゴミが大量に出てしまう――を突いて、それとは別の再生可能な、やわらかい世界を組み立て直せるのではないかと思ったんです。とっても簡単に説明させていただくと、この妄想を起点に様々な分解現象を捉え直していった内容となります。

後藤さんが読んでくださっていたと知ったときは大変驚きました。

 

後藤:以前斎藤さんとトークイベントをしたんですが、その時に『分解の哲学』を知ったんです。これがものすごく面白くて。

そもそも発酵や分解を取り上げた藤原さんの考え方は、生活世界のあらゆる部分と切り離せないなと実感したんです。音楽だって、コードやメロディーを分解・再構築して新しいものが生まれてくるという循環の中にある。

僕たちはすぐ「エコロジー」や「サステイナブル」という言葉を使ってしまいますが、そういう時、無意識のうちに”作ること”から発想してしまっていて、分解し再利用することを本当に考えられていいるのかという問いかけは胸に刺さりました。

 

藤原:分解という考えは音楽にも当てはまるというのは新鮮に感じます。確かに音楽もどこかで聞いた、たまたま耳に入った、そういう音をリスペクトしつつ、崩して組み合わせていくものですよね。彫刻も木を崩して作り上げていく。『分解の哲学』はそういう美的で芸術的なものとも重なってくると信じながら書いたので、大変ありがたく思います。

 

篠田:僕もミュージシャンの端くれとして、作曲と分解の関係は身に染みるところが多いです。僕はあんまり楽器を弾けないんですが、分解された音の断片──サンプル──を買ってそれを使うことによって作曲をしているんですよね。ヒップホップもサンプリングをビートに載せて、ラップしていくことで生まれたジャンルですし、分解された音の断片を活用するという発想は、作曲の可能性を一気に広げたと思います。

 

永井:なるほど。音楽と分解の関係を考えると、後藤さんがこの本と出会ったことには必然性があったわけですね。

 

斎藤:私は普段大学でマルクス経済学を教えていています。そのため、冒頭に藤原さんがおっしゃっていた「たくさん働いて、どんどん生産力をあげよう」という考えのもと発展してきた資本主義が限界に近づいているのを感じ、その先に向かうにはどうしたらいいのか常に考えているんです。

その際、私も人間と自然の関係における循環的な関係に注目してきたのですが、生産だけではなく分解に目を向けようという『分解の哲学』の視点がまだまだ弱かったなと反省をしました。分解の次元に目をむけないと資本主義のライフスタイルが生み出すゴミ問題に代表される環境問題について真に理解できない、というのはまさにその通りだと思いましたね。

 

ゴミはどんな問いや課題に結びつく?消費したい欲望が作られる社会

 

永井:では、こうしたゴミ・分解・資本主義といったテーマにまつわる問いを提起してみたいと思います。なぜいまゴミということをあえて考えるのか?ゴミとは、そもそもなにを指すのか、この定義も開かれています。ゴミという言葉は、どんな問いやどんな課題に結びつくと思いますか?

 

田代:正直私はこれまでゴミについて考えたことがなくて。でもあらためて提起されてみると、自分が捨てたもの、朝あちこちに山積されている大量のゴミがその後どこに向かうのかを考えたこともないし、知らない。それは異様なことなんじゃないかと思いました。捨てる場面でものとの関係性が途切れるのは当たり前になっていますよね。

 

篠田:僕はゴミがもつアンビバレントな性質が面白いなと感じています。ヤクザ映画の『仁義なき戦い』が好きなんですけど、その中で主人公の菅原文太はゴミの担当なんですよ。彼はゴミ処理場を回していて、そこでお金を稼いでいる。

そこから考えると、ゴミというのは社会の中でも辺境や周縁に位置している排除されたヤクザのような人達扱うようなものとしてイメージされる一方で、巨大な利益を生み出すというアンビバレントな性質を内包したものなんですよね。実際作中ではゴミを巡ってヤクザの抗争が勃発したりしていて。

原発の問題もこの構造に近似しているなと感じました。福島の放射性廃棄物処理は社会の中で嫌なものとして追いやられている一方、廃棄物処理をめぐって莫大な利権構造が生まれている側面もある。そういう社会の矛盾が押し付けらる場所にはゴミがあるのかなと思いました。

 

永井:斎藤さんはいかがですか?

 

斎藤:ものを捨てることは資本主義にとって重要なんです。今の資本主義は絶えず新しい商品を作って、それを買ってもらうことで動いていくので。

だから広告やパッケージンによって人々を幻惑し、際限のない消費を促す。実際必要なものって本当はもっと少ないはずなんですが、わざわざエネルギーを使って、いらないものを作り出しては消費しているというとても矛盾したロジックで社会が稼働しているのが現代資本主義なんです。

 

田代:今斎藤さんがおっしゃったような消費したいという欲望は、快楽をもたらしますよね。自由にショッピングすることでストレスを解消するとか、断捨離が気持ちいいとか。この欲望自体も、資本主義が滞りなく稼働するために作られたものなんでしょうか?それとも、そもそも人間はこういう心理を抱きやすいんでしょうか?

 

藤原:私たちはかなり無意識に欲望を駆り立てられていると思います。北海道産と書いてあるだけでポテトチップスやアイスクリームを美味しく感じる、というのも一例ですね。インクとプラスチックケースで「北海道産」と印字する。こうした原価の数倍高いパッケージ代や、これを売り込んでいく代理店に渡す広告料を使って、「北海道産」の商品は私たちの目にする店頭までやってきて私たちを誘惑します。さらにTVや街頭広告を通じて購買欲を掻き立てますよね。これが斎藤さんのいうように資本主義の一つのカラクリなんです。そこを見なければいけないと思います。

 

斎藤自分は自由に消費をしている、だから快楽を感じる。そういう状態こそが資本の奴隷になっているということなんですね。実際は自由とは真逆であり、その認識を改める必要がある。

マルクスも述べていますが、奴隷は自分が奴隷なんだと気がついた時初めて立ち上がって自由を獲得しようと試みることができるようになる。だから、気づくことははじまりの一歩なんです。いきなり自由にはなれないかもしれないけれど、現実の問題を認識するのが第一歩になる。

 

後藤:すごく身に染みます。というのも、僕は音楽をやっていてやっぱりランキングや売上といった数字に囚われてしまう場面があるんですよね。本来は数の勝負をしているわけじゃないし、何枚売れたとしても最終的にCDはプラスチックゴミになってしまう。商業主義によって歪んでしまったけど、ミュージシャンの自由も本当はお金に縛られないところにあるんじゃないかなと思うんです。

 

人類の営みが地質に刻まれる?──「人新世」とは何か

 

永井:欲望やゴミはあまりに日常的でありながらも、こうしたロジックによって不可視にされていることはよく分かりますね。

ここで、資本主義社会とゴミについてより踏み込んで考えるためのキーワードとなる言葉を、藤原さんからご紹介いただきます。「人新世」というキーワードです。

 

藤原:「人新世」というのは地質学の言葉です。人間がこうして大量生産・大量消費・大量廃棄という経済活動をしてきた痕跡が地質にも刻まれるほどになったということを表しています。

この地質をきちんと定義して考えていこうというムーブメントが、自然科学だけではなく人文社会でも活発になってきているんです。

 

ここであらためてとなりますが、ゴミとは生態学的には”分解され得ないもの”を指します。通常地球上のあらゆるものは微生物やミミズたちによって分解されるのですが、彼らが分解できないものは、土壌や海魚の中に残っていきます。それらを指してゴミと定義するのであれば、この人新世という地層には、そうした分解されなかったプラスチックや放射性廃棄物で溢れていた世界の様子が刻まれることになります。

 

気候変動も含め、人間はこうして地層に刻まれるほどに世界を変えてしまいました。この状況を悲観的に捉えているのが人新世という言葉です。

もう少し詳しく見ていくために、図を用意しました。

 

 

これは、18世紀以降の自然の変化をダイジェスト版で書いてあるものです。上の3つは、温暖化につながるCO2・一酸化窒素・メタンの濃度です。2000年あたりから急激に上がっていますね。その次はオゾン層。北半球の表面温度や洪水の量を表します。

その下にいくと、魚介類の養殖、さらにその下の一番右は絶滅危惧種と絶滅した生物の種がどれぐらい増えているのかが記されています。

人口爆発も含め、私たちが生きている20世紀というのは地球の歴史に照らして見ても、極めて例外的なんです。ここに描かれているように私たちが地球にもたらした変化は崖のように急なものです。人新世の概念はこれらが大量生産大量廃棄の結果であると警告しています。

 

斎藤:本来自然界の循環によって分解されるようなものでも、生産のスピードが上がりすぎて、分解が追い付かなくなってしまってるんです。それが人新世だと言える。資本主義のモデルは、生産消費した後のプロセスを完全に見落としていたんです。本来の自然と人間の関係性が資本主義によって過度に歪められてしまった。

 

後藤:資本主義によって、欲望が一人歩きしていろんなものから切り離されているんだなと感じます。一時的な欲望だけが立ち上がり、僕たちを消費に掻き立てている。自分の行動に対する違和感──「こんなにたくさんのものを捨てたら世界はどうなるんだろう..?」──という良識的な感覚が、欲望から切り離されている。

ゴミ関係の仕事をしている友人に聞いてびっくりしたのは、ゴミの最終処分場を持っていない自治体がすごく多いことです。自分の町で燃やしたものを埋め立てる場所を持っていないから、お金を払って埋め立ててもらっている自治体がほとんどだそうで。すごく歪ですよね。

 

田代資本主義というのは経済合理性の上に成り立っていると言われていて、だからこそ信仰されてきたと思います。でも、いざ蓋を開けてみたらその実態は超非合理的なんですね。お金はかかるし、修理できないし、ゴミは増える。

 

永井:資本主義のために欲求は作られていた実態がある一方で、視聴者の方のコメントに、「コロナで飲食店を応援するためにテイクアウトすると容器がゴミになるのがとてもストレスです」というコメントがありました。とても共感します。何も気にせずにゴミを出してしまうこともありますが、個人が意識的になっても企業などより大きな存在がサステナビリティを意識していないとどうしてもゴミが出てしまう。両面あるわけですね。

 

斎藤:個人レベルの行動では変えられない部分も大きいですよね。そもそもゴミが出るようなものしか売ってないというのが現実なので。だとするとこの問題は国や自治体といったレベルで解決を試みるべき問題だということがすぐに分かります。政府に規制されるのはどうなんだという考えも根強くある一方、環境問題に関して言えば広告規制も含め、そうした決まりを作っていくのは重要になってくるはずです。

 

藤原:もともと第一次対戦後にアメリカで生まれたPRという言葉は、Public Relations──つまり「パブリックに関係を繋いていく」という意味だったんです。これがいつのまにか広告・宣伝という意味になってしまいましたが、この消えていったRelationsに注目して行動すれば活路が見出せる可能性は残されているのではないかと。仕組みを疑ったり、作り直そうとすることは重要ですね。

 

篠田:斎藤さんとか藤原さんがおっしゃっているのは、「ゴミは再利用しなけらばならない」という規則をしっかり作るぐらいのことをしないと現状を変えるのは難しいのではないかということですよね。

 

斎藤:そうですね。今はコロナのことがあって一時的に、「生活を見直そう、断捨離だ」「サステナビリティ―が大事だ」というムードになっていますが、ファッション業界はこれからもシーズンごとに服を作ってショーをやりますよね。この短期的なサイクルを見直そうとまでなっていない。だから断捨離した人はまた新しい服を買うでしょう。

 

田:ファッションに関しての販促で驚いたのが古着ですね。先日リーバイスの旗艦店に行ったら、ヴィンテージリーバイスを仕入れて売り出してたんです。古着に記号的な価値をつけて欲望をそそるものに仕立てあげ、最終的にそれらは再び店頭にたどり着いていた。なにが起きてるんだろうと驚いたのを思い出しました。

 

後藤:僕たち一般人のクレームが企業を縛っている側面も絶対にありますよね。煎餅が割れてたら嫌だなと感じる人がいるから個別包装にして割れないようにしていたり。そういう意味では、相互的に縛ってるんじゃないかなと思います。当たり前だと感じていることを再考してみる余地はあると思います。

 

永井:そうしたコメントも届いています。広告に関わる仕事を行ってきた方で、「個人や企業の責任はもちろんあるが、こうした人々の倫理観や良心に頼るだけではなくやはり仕組みそのものを問い直す必要があると思います。」と。

 

続きは後編へ