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コロナ禍の震災10年 – 木村朗子

 コロナ禍に震災後10年を迎えることになった。COVID-19が流行りだした2020年春に企画されたオンラインワークショップ「感染症と文学」で、「コロナ禍と文学」と題して話す機会があった。そこでは、著書に東日本大震災後に書かれた文学作品や映像作品、芸術作品について書いた『震災後文学論』(青土社、2013年)、『その後の震災後文学論』(青土社、2018年)があるせいで、次にはコロナ禍文学論を書くのではないかと期待されてもいたのである。

 

 伝染病は、ペストも天然痘もコレラもスペイン風邪もその都度撲滅させてきた歴史がある。いずれはCOVID-19のことも制御できるようになるだろう。けれども放射能災はちがう。震災後10年が過ぎたといってもセシウムの半減期にはまだあと20年もあるし、一人の人間が生きられる時間をゆうにこえて放射能はその力を発揮しつづける。メルトダウンした核燃料にはいまだ手を付けることができない。大量の汚染土や使用済みの核燃料はいまのところ地中深くに埋めて人間の営みからできるだけ遠くに隔離する以外に方法はないというのだが、処分地は決まらない。人間が放射性物質を扱いあぐねていることは10年経っても変わらぬままだ。

 

 だから、新型コロナウイルスのパンデミックと放射能災をごっちゃにするのは間違いだし、COVID-19のことで、放射能災を忘れてしまうわけにはいかないし、あるいは両者を並べることでCOVID-19を克服したときに放射能災もなくなったかのように錯覚させられるのではないかと心配だ、とそのように話した。

 

 同じころ、『現代思想』9月臨時増刊号「コロナ時代を生きるための60冊」にも「コロナ禍は放射能災に似ているか」として、東日本大震災を受けて書かれた関口涼子『カタストロフ前夜』(明石書店、2020年)を紹介し、東日本大震災とコロナ禍がどんなふうに違っていたかをむしろ思い出す必要があると書いている。わりと頑なに両者の違いをいいたてていたのである。

 

 しかしそのあとで気づいたことがある。それはコロナ禍で再び震災の衝撃を思い出したり、あるいはより鮮明に想像したりすることがあるということだった。

 

 日頃、大学生に日本文学を講じている私は、震災の記憶が年々遠のいていっていることを感じていた。

 

 2020年度の授業がオンラインで行われることになって、学内オンラインイベントとして津波の被災地である陸前高田で映像作品や絵画作品をつくり、『あわいゆくころ─陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019年)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房、2021年)などの著書がある瀬尾夏美さんをゲストに呼んでお話をうかがったり、大船渡で「おんば」たちと石川啄木歌を訳して『東北おんば訳 石川啄木の歌』(未來社、2017年)を出した新井高子さんとおんばたちとの交流を追った鈴木余位監督の映画『東北おんばのうた-つなみの浜辺で』の上映及びアフタートークを行うなどした。

 

 被災地出身の学生からは、東北のことをいまだに考えている人がいると知ってうれしかったという声があがった。被災地出身者とのギャップは広がるばかりで、東京では東北の被災の話はすっかり忘れられていると感じているらしい。

 

 ところがコロナ禍の授業で多和田葉子『献灯使』(講談社、2014年)を読んだら、放射能災を受けて書かれた小説にもかかわらず、まさにいまのコロナ禍を描いた小説だという感想を持った学生が少なからずいたことに気づかされた。小説にはなんらかの理由で日本が鎖国状態となって海外との交流がいっさい途絶えている世界が描かれているのである。それは人の行き来が制限され国境が閉ざされたロックダウン下の世界の現在そのものだというのだ。実は小説には原発事故や放射能のことなどまったく書かれていない。それでも震災後の小説としてこれまで読まれてきたのだった。いま学生たちは別の回路から自らの身に切迫する事態として小説世界を理解している。

 

 コロナ禍のままならなさ、そしてみえないものへの恐怖は現在、世界中のだれもが感じていることだ。そうだとするならば、コロナ禍の感覚を通じて、10年前のフクシマの放射能災に、あるいは30数年前のチェルノブイリの放射能災にあらためて思いを寄せることができるようになっているのかもしれない。

 

 震災後に南相馬に移り住んで書かれた柳美里『JR上野駅公園口』(河出書房新社、2014年)のモーガン・ジィルズ訳が2020年全米図書賞を受賞したことを思うと、ますます世界があの放射能災の衝撃を我がことのようにして受け止めるようなっていることを思わずにはいられない。

 

 ある日を境に世界が一変してしまうこと、この経験が別の経験へと橋渡す。ならば私の役割は若い世代へ歴史を受け渡していくことなのだろう。あの日のことを考えるつづけるためだけに震災が記憶されるのではない。震災後の日々とは、あれからのこと、そしてこれからのことを考えるための時間だったのだと思う。

 

 

木村 朗子(きむら さえこ)

津田塾大学学芸学部教授。専門は日本文学研究。著書に『妄想古典教室-欲望で読み解く日本美術』(青土社、2021年)、『その後の震災後文学論』(青土社、2018年)、『女子大で『源氏物語』を読む-古典を自由に読む方法』(青土社、2016年)、『震災後文学論-あたらしい日本文学のために』(青土社、2013年)他。